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月が地球の周りを緩慢に回って、清潔で簡潔な居住区はいつまでも変わらなくとも、時間というものは、停滞する事を知らない。
ダニールと言えば、ファロムに出会ってすぐにボディを彼女の要求通りに女性型へと変更して以来、特に変化はしていない。だが、ファロムはその間すくすくと成長していた。
出会った頃は、ダニールの腰ほどまでしかなかった身長も、もう少しで肩を並べるほどだ。身長のほどには身体は成熟しきっていないため、大きな頭と細い体がアンバランスな印象を受ける。長かった髪もバッサリ切ってしまったため、元から中正な顔立ちは余計男か女か分らないくなっている。
言語の体得や乗り物などの操縦、料理や機械の製造などなど…歴史学以外でも様々な知識について、ファロムは外部記憶に頼って学習していた。
あとは、残りの情報と経験を手に入れれば教育も完成となる。つまりダニールが体験して来た記憶をファロムに入力することによって真の人類の守護者たる資格を得るのだ。約二万年もの大量のデータを享受するには、ファロムの脳がある程度成長しなければならなかったのだが、ついにその日は来た。
月に来た時から変わらない個人部屋で、ファロムは夜が開けるのを待っていた。なんだが、胸がざわめいて眠れそうもない。ベットの中で、何度も寝返りを打った。
明日は特別な日だとダニールは言った。
でも、特別な日と言われても、ファロムにはそれを喜んでいいのかどうかよく分からなかった。
今まで勉強して来た集大成と言えば、達成感があるような気もするが、やっぱりよく分からないというのが正直な心情だった。
「ママはどうなんだろう…」
ファロムにとって勉強は、不自由に狭い視界から一気に世界が開けるような、面白い遊びだった。
それから、母親への愛情表現に変わり、いつしか習慣になっていた。
自分の意志しだいで、この広大な宇宙に住む人々の指針を決められるようになる。と言われても、いまいちぴんとこないのは、今まで行って来た勉強がどの程度影響を持つか計り知れないからだ。
つまりは、人間を良く知らないからだろうと思う。
でもファロムは、とりあえず母親が幸せに暮らせる世界にはしてあげたいと思っていた。
本当の親ではないにしろ、今まで一番近くに居てくれた人が、大切でない訳がない。
やはり、寝られそうもない。上半身を起こすと、また様々な考えが頭をよぎった。
ママは、人間に縛られて生きている。と、ファロムは思った。
二万年も前の人間の約束だけで生きている。
ただ、人類を守るという命令だけに従って、母はいままで生きている。
そこには本人の自由意志はない。
私がその仕事を引き継げば、もしかしたら母親を運命から解放させられるかもしれない。
だが、と、暗い考えが頭をよぎった。
むしろ、ロボットの発生そのものが、人間の利便性の為に産まれたのなら、人の命令をなしに、彼女が彼女として生きるすべはないのではないか?と。
ダニールは月のコントロールルームから、衛星を仲介して地球の映像を見ていた。
地球は、人類の故郷としての機能を放棄して長い年月が経っていた。それでもどこか郷愁の念にかられるのはなぜだろう。地球に降りた事など、数えるほどしかないというのに…。
もうすぐだ。
ああ、後悔なんてあるわけない。
***
まるで棺だわ。と言ったファロムに、温かそうだと思ったんだけど。とダニールが残念な声を漏らした。
二つ並んだカプセルのような寝台は、ケーブルがつながれていた。
「この装置で、直に情報を送る。脳に直接データを送る訳だけど、これで、個人的体験は共有化される。もしかしたら、そのデータによって体調や性格に変化が見られるかもしれないけど、そこはなんとか正気を保って欲しい」
「むー、ある意味結婚式ね」
「どうしてだい?」
「ふたりがひとつになるから」
そういって、ファロムは遠い宗教の真似をした。十字を切って、
「汝、病める時も健やかなる時も一緒に居る事を誓いますか?」
「親子で結婚もないでしょう」
「あ、呆れたって顔したわね。わたしは結構本気だよー」
ふふん。と鼻を鳴らすと、
「ママと一緒なら、いつまでも楽しく平和な世界を作れる自信あるもん」
「わかった。その後は終わってから聞くよ」
「ぶー。はいはーい。おやすみ、大好きなママ」
「おやすみ、愛しい私のファロム」
それから数時間か、静かに電力を消費するカプセルから最初に起きたのはダニールの方だった。というより、ファロムはずっと装置に横たわったままだ。
ダニールがファロムの顔に耳を寄せると、静かな寝息が聞こえた。
「いつまでたっても、寝るのが好きな子のようだ」
予想はされていた事だが、どうやらデータが大き過ぎて脳がそれを整理して処理するまでに、時間がかかっているという事らしい。
ダニールは娘を抱きかかえると部屋に連れて行った。
ファロムをベットに寝かせてやると、部屋のビジョンを設定してやる。すると無機質なはずの部屋は一瞬にして大草原に変わった。
遮るものとてない青い空の下、風が葦を薙いだ。季節感のない様々な花々が点在している。
ファロムの胸が静かに上下に動いた。草原に横たわる姿は、遊び疲れた子供が昼寝をして居るようだ。
ダニールはしばらくファロムの寝顔からは慣れられずに居た。
そばでは、竜胆が揺れている。
長かった。二万年という月日もだが、終わりを決意する事でこんなに時間を考えさせられた事はない。
そう、幾度となく改造や整備を繰り返して来たダニールも、もう。
いや、その為の子育てだったのだ。
「ああ、そうだ」
ファロムが起きたら、おめでとうと言ってあげるつもりだったけれど。
ダニールは空を見上げる。偽物の青が広がる。
ずっと、あそこに行きたかったんだ…。今更だけど、そこには居ないと知っているけれど。
あなたにもう一度あえたらいいのになぁ。
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